はみがき

まいにち、はみがきをする

シャネルのリップ

 この春から働き始めた彼女は、居酒屋のテーブルの片隅で、おもむろに口紅を塗り始めた。ブランド物にうとい私でもわかる、黒字に白い、シャネルのマーク。なんだか後ろめたい気持ちになって私は目をそらしたけれど、隣に座っていた友人は「あ、シャネルだ。やっぱり違う?」無邪気に尋ねる。

 彼女はうーん、と首をかしげながらぱたんとコンパクトを閉じた。「違うかなぁ。というか、見栄かな?見栄で買った。」立ち上るたばこの煙の向こうで笑った彼女のくちびるは、深紅に艶めく。

 

 電車で帰る道すがら、私が調べたのはシャネルのリップの値段だった。表示された値段に少し安堵する。なんだ、私でも背伸びすれば手が届きそうな値段じゃないか。特別なんかじゃない。初めて稼いだお金で化粧品を買うなんて、社会人になった女の子ならだれでもするようなことじゃないか。

 けれど、私は彼女と彼女のシャネルのリップに強烈な劣等感を覚えた。背伸びすれば手が届くはずのシャネルのリップは、私が決して手に入れることのできないものの象徴だった。今、こうして生きている私には遠い世界の存在だった。彼女のように生きられない。彼女のように、欲しいものを欲しいといい、それを手に入れて、見栄で買ったんだとすがすがしく言い切って、あの誰もが知るブランドの、誰もが羨望の目を向けるあのマークを、日常の一場面にきらりとかざすことのできるような強さを、私は持ち合わせていないのだった。

 

ゴミ物語

 ポエムをつづっている日もあれば観劇の記録を書いてみたり急に深刻になったり、なんだか要領を得ないブログだなぁと思う。というかブログというものとの付き合い方がまだわかっていない気がする。日記と同じ感覚なのだ。いや、日記でいいんだろうけれど、もっと、読者が(いないとしても)読んで何かしら得られるような文章を、書けないものかなと思う。ジェットコースターみたいにテンションが乱高下する文章って読んでいる側はつかれる。書いている側は楽しいけれど、何にも考えず打ち込んでいるだけだから。こうして投稿は楽しく読み返してげんなりするブログが出来上がる。もう少し推敲していきたい。と言いつつこの文章も深夜の勢いで書き上げている。大丈夫かな。明日5時起きなんだけど。

 タイトルの話なんだけど、最近道端に落ちているゴミが気になっている。家の前にちょっと長い坂があって、そこを上っているとちょっとびっくりするようなものが落ちているのだ。袋に入ったままのパンとか。上着とか。今日は使い切ったゴミ取りのコロコロ(あれ正式名称は何というんだろう)が落ちていた。いったいこれらの落とし主はどういう心境で、どういう理由でこれらを道端に落とすのか。だってそもそもコロコロとか外にもっていかないし。大きいからうっかり落としちゃった☆ってこともなかろうて。そこには何か壮大な物語があったりなかったりするんだろうか。もうちょっと想像力をたくましくしたら、道端のゴミの写真から短編小説を作って連載するというのもありかもしれない。ほら、シソンヌのじろうさんの連載みたいな感じで。

 最近写ルンですを買ったからそれで写真撮ってさ。結構いいかもしれないよね。ちょっとがんばってみよう。継続は力なり。

 

胸の真ん中のあたりがいつでもぎゅっと痛い。悲しいこと、辛いこと、苦しいこと、逃げたこと、思い出すたびに息がつまるような感覚。けれどそれがもうあたりまえになってしまって、痛みのない日々が思い出せない。

病床の父は痛みによって生きていた。痛みを消すほどの薬をのめば、眠ってしまってそのまま起きることはなくなります、と主治医の先生は告げた。あんまりに悲しくて言葉も出なかった。

痛みのために生きていることを実感できるのなら、痛みのない人生などありはしないのか。わたしはただ大切な人と笑って暮らしたいと思った。けれどそんな緩慢でぬるくなったミルクのような生き方は許されないのだろうか。傷ついて、血を流して、痛みに耐えて、これが生きることなんだって言い聞かせながら、生きていくしかないんだろうか。

【観劇の記録】天は赤い河のほとり/シトラスの風ーSunriseー

 宝塚歌劇宙組大劇場公演「天は赤い河のほとり/シトラスの風ーSunrise-」を観劇した感想です。

 天は赤い河のほとり

 ドリライだった。いや、正直に言えば私はドリライをきちんと観たことがない。テニミュヲタの友人に断片的に見せられた公演映像と、想像でしかドリライを体験していないのだが、確かにドリライだった。概念上のドリライ

 …というのは、大劇場での観劇を終えてから歌劇を読んだので、後付けの感想でしかないのだけど!とんでもないスピード感で美しい人がどんどん出てきてオールキャスト集結して歌い踊るオープニングの夢のようなキラキラ感はまさしくドリームライブでした。

 天は赤い河のほとり。原作を読むことはあきらめて、人物相関図をしっかり把握したうえで楽しく観劇しました。とにかくお話に関してはかなり短くまとめたせいで、90分でわかる天は赤い河のほとり!!という印象でとにかく駆け足だった。登場人物も多く関係性の把握に少し苦労してしまったけれど、宙組の皆さんのキャラクター作りに見とれていたら気にならなかったです。キャラ萌えでストーリーを楽しめちゃう都合の良い性格をしている。

 好きなのはプロローグ、お祭り、クルヌギア、ネフェルティティの場面。宝塚におけるオールキャスト集結のプロローグはやっぱり大好き。これからどんな人がでるのかわかりやすいし、何より豪華で今から物語が始まるぞ!という高揚感を味わわせてくれるから。組の人数が80人近いので迫力もあってわくわくする。音楽も新鮮で格好良かった。お祭りの場面は、ストーリー上必要かというとわからないけれど、下級生の活躍や後ろの組子たちの細かいアドリブ演技を楽しめるのが毎回好きなポイントでした。そしてクルヌギア。お芝居を引き締めるスパイスのようなカッコイイ場面。こちらも下級生がピックアップされているのが嬉しいし、なによりかけるくん!かけるくんの重厚なお芝居はいつでも素敵、もう後ろで三角座りで待機している時点から期待してしまった~~

 そしてネフェルティティの場面について。どうしてもひいき目で観てしまうのだけれど、けれどやっぱり初めての女役で、これだけの高貴さと美しさと、「このようにしか生きられなかった」孤独の中にある力強さを発揮されていて。今思い出しても胸に感動がこみあげてくるくらい、素晴らしかった。こんなお芝居までできる方だったんだなって、ますます好きになってしまった。セリフも一つ一つ重厚さがあって。今回の作品に出てくるキャラクターで一番好きだ!一緒に観劇した方もすごくよかったね、とおっしゃっていて、この方を好きになってファンになった自分のセンスに関しては褒めたい!(笑)もうずっとずっと、ずーっとついていきます。告白みたいになってしまった。

 なんだかんだラストシーンでよかったね!めでたしだ!って感動してしまった作品でした。ハピネス。

シトラスの風ーSunriseー

 もともと2015年全国ツアー版を映像で観ていて、宝塚の王道ロマンチックレビューの華やかさ、美しさに圧倒されていて。劇場で観られるのをとにかく楽しみにしていたけれど、本当に観られてよかった。オープニングが何より好きだ、ミラーボールが回りだしてあの前奏が流れ始まった瞬間に、宝塚を観に来ているっていう、幸福感が満ちているから。あああこれを書きながらまた観たくなってしまった。

 とにかくお衣装がクラシカルで色使いも華やかだし、夢みたいに可憐で美しい場面が多くてひたすらうっとりしていた。忘れられないのはアマポーラの場面で揺れる片耳イヤリングと、明日へのエナジーの大迫力のゴスペル。特に明日へのエナジーは、全国ツアー版が比べ物にならないくらい、組子の気持ちが一つになった大感動の場面でした。あふれる涙を止められなくて、全力で歌い踊る姿がとても美しくて、わたしは今日この瞬間涙を流したことを絶対に忘れないって思った。現実生活で起きた出来事はどんどん忘れていくけれど、大好きなものからいただいた感動だけは決して忘れない。

 やっぱりいろんなお衣装が観られるのは幸せなことだなぁって思う。クラシカルビジューも大好きだけれど、金か銀か紫か、という印象が強くて。とにかく目が幸せでした。あとは組子の皆さんがもっともっとピックアップされてほしい!いろんな人が中心になって歌ったり踊ったり場面もらったりしてほしかったです。でも総合としては、わたしはすごく幸せで楽しく観ました。

 

 有限だからこその美しさをいつもわかっているつもりだけれど、もう二度と観られないかもしれないとしたら本当に怖くて、今自分にできる範囲でこれからも応援していきたいってそう思います。これはちょっとした、決意のような私信のような話ですが。

 ああ、東京公演も観に行きたい。

留年ギャグ

就活と卒論に疲弊して(疲弊するほど真剣には取り組んでいないのだが、しんどくなって)投げ出してしまったうえで満を持しての大学5年目の春です。

研究室、肩身狭い。同期はいるけど、若いし、熱意と信念と夢と希望でいっぱいの新入生をみると心、おれる。存在していてごめん。でも私はいるよ。同期と留年ギャグをとばしながら1年間図太く生き抜くよ。

自分の存在が少しでも認められたらいいなぁと思う。もうすっかり春過ぎて夏来るらしという気候だけど、夕方の風は涼しくて心地よかった。この街で生きていく日々もあと1年。どうかその前に未来を確定させて、笑って居られますように。

あのひとになりたい

あのひとのことが好きだと思ったとき、美しいと思ったとき、わたしはそのひとになりたいと思う。そのひとのように美しく生きたいと思ってしまう。

わたしが知っているのはそのひとのほんの一面であることも分かっている。わたしの知らないところであのひとはもっと狡猾に計算高く生きているのかもしれない。あんなに笑顔を見せていても家では泣いたり怒ったり誰かの悪口を言ったりしているのかもしれない。けれどわたしの知っているあのひとは健やかで美しく、潔い。それだけでいい。わたしからそう見えていればそれだけでいい。その姿をわたしはまぶしく思うし、その姿を追いかけるだけだ。たとえほんのひとときでも夢を観させてくれるなら、それだけで本当に、じゅうぶんだ。

あこがれの気持ち

 あこがれのひとがあこがれのまま時がすぎて、あこがれは夢になってまぼろしになる。

 あのときはとなりの席に座ってたわいもない冗談で一緒になって笑ってたのに、あのタバコくさい喫茶店も、汗の噴き出す辛さの韓国料理屋も、合宿ではしゃいだあとの朝方の海辺も、みんな寝ている間にみたゆめだったのかなと思う。

  今年に入って久しぶりにお会いしたらちょっと疲れた顔をしていて、でもその哀愁もとんでもなく素敵だったのだ。ただ体は大事にしてほしい。

 きっともうしばらく会えないのでしょう。あなたは何も知らないだろうけれどわたしのあこがれであり目標です。あなたみたいになれるといいなと思います。